2年前にmixi日記に載せた文章です。
私の阪神・淡路大震災の被災経験について綴りました。
防災・減災の一助になればと思い、こちらにできるだけカットしないようにして転載します。
2年前の文章ということを頭において読んでいただければ幸いです(ですから「15年前…」などと書いています)
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(1)
毎年(昨年は入院中で書けなかったけど)書いている、私の震災への思い。
長くなってしまいますが、お時間のある方は読んでください。
新しいマイミクさんのために書いておきますが、私は15年前のあの時、神戸市長田区というところに住んでいました。
当時は新婚10カ月で、まだ駆け出しのオットと当時勤めていた電機メーカーの社宅に二人で住んでいたのです。
全く親類も知り合いもいないところに、二人で一から始めていた矢先でした。
二、三日前からインフルエンザで高熱を出していて寝込んでいて、そろそろ治りかけの時。
朝、突然の激震。
関東育ちであるため、地震ということわかりましたが、だからといって何もできるわけではない。
大きく揺れるたびに、もう死ぬんだ、次には死ぬんだということを覚悟しました。
幸い私の社宅は、「鉄骨コンクリート」造りで頑丈にできていたので、つぶされることもなく、部屋の中は酷いことになっていたけどなんとか生き残っていました。
でも窓から見える家からは瓦がなくなっているのはもちろん、壊れまくり。
とりあえず避難しようということで、近所の小学校に行くも、当時はまだそんなに危機管理体制は整っていなくて、体育館はおこか門も入れず。そうこうしていて私のインフルエンザがぶり返してもいけないと、家に戻ってみると、暫くしてTV回復。京都で死者2人と報道しているけど、これはそんなことでは済まされないでしょ、と思っていました。
電話が通じないので、横浜にいる親たちに「とりあえず無事」と知らせることもできず。親は死んだと思っていたそうです。
夜になって長田の大火ともいうべきあの火事が迫ってきた時は、自分自身「半狂乱」になっていました。自宅が燃えかもしれないと思って、どうしていいかわからない。社宅中の人がそんな感じ。火が真っ暗ななか近づいてくるのは、本当に怖いものでした。
結局我が家には火は来ませんでした。
近くを走る電車の線路で火は止まったようでした。でも明るくなってから見た長田の町は、目も当てられない状況でした。
以来私は町が焦げたにおいを嗅ぎながら、過ごしていたのです。
(2)
TVがついたということでおわかりでしょうが、電気はすぐに通じました。電話も二、三日後に通じました。
水道、ガスは3カ月後までダメ。でも電気が通じればなんとか生活はできて、激震後二日間はその場で生活しました。
でもいったん横浜に戻ろうということに。
でも鉄道は横浜どころか大阪、神戸の中心地・三宮にまでも行けない(当時大阪には小一時間、三宮までは20分あれば出られる交通の便の良さが自慢の場所でした。)
関東地方の方にはわかりにくいけれど、結局、最寄りの板宿という駅から地下鉄で西神中央というところへ、そこからバスで明石へ、西明石から新幹線で岡山へ、岡山から飛行機で羽田へ、というルートで帰りました。
無事横浜に帰れたけれど、報道される死亡者の数が、どんどん増えていくのがたまりませんでした。
オットの仕事もあったので結局すぐに帰神。
やはり岡山へ飛び、それから東へ向かい、最終的にJRで須磨という駅についてからタクシーだったのですが、タクシーから見える焼け野原に、涙が止まりませんでした。
当時私たちは自転車であっちこっちを走り回っていたのですが、その町が黒焦げになっている、言いようもないにおいが立ち込めている。ここで何千人と言う人が亡くなっていて、自分たちは今そこにいるんだ…そして自分たちはなぜか生き残っている。
それから毎日のように漂ってくるお線香のにおい、読経の声。
家が焼けたあとに建てられた立て看板(「●●生きています」とメッセージが書かれたもの)。
それから、何が自分たちを生き残らせたのか、あの瞬間で死ななかったのは何故なのか悩む日々でした。
(3)
当時知り合いが少なかった関西での生活だったのですが、その数少ない知人でも亡くなったという方はいませんでした。
でも私が非常勤で働いていた塾は壊滅状態。
暫くして壊れたビルの間をくぐってその塾にたどり着いて、生徒が1人亡くなったということを告げられました。でもそれが自分が担当していた子なのかどうかはわからずじまい。あとよくお喋りしていた非常勤の先生仲間とも以来音信不通。その塾も人を雇えないということで、仕事ができなくなりました。
長田の町はあれほどの大火でしたから、千人単位での死者だったと思います。毎日同じ時間に自転車ですれ違っていた、足の悪い男性、助かったのだろうか、古いケーキ屋のおじちゃんは無事だったのか。消息もわからない。
顔見知りだっていうことは、その人とは何も繋がらないんだ、と実感しました。
私が震災後にショックだったこと、もう一つ。
暫くして、大阪の友人のお母さんが、大変かもしれないけど、気晴らしに大阪に出てきては?と言われて、電車を乗り継ぎ乗り継ぎ行ってみました。
行ってみた大阪・梅田の町はきらびやか。
陰惨とした神戸と数十キロしか離れてないのに、別世界。勿論震災での被害は大阪も大きかったと思うのだけど、華やかなOLさんたちに、「私たちはまだガスも水道も通らない生活を送っているのに」と八つ当たりしたくなったものでした。
それだけ震災は局所的なものだったともいえるのです。
でもそこの中心では、被害が尋常ではない。
人類が作ってきた「街」という文化は、本当に脆く危ういものなのだということを感じました。
あと思うのは、長田の町というところは、戦後作られた木造住宅が本当に多かったのです。それも素人目からでも、地震が来たらアウトじゃんと思うような家が密集していたのです。
その町の作りを行政がきちんと把握していなかったのか。
私が15年間抱いてきた怒りです。
(4)
長くなりました。これで終わらせられればと思います。
阪神淡路大震災の1月17日、あるいは関東大震災の9月1日が近付くと、みんな地震に対して意識が高まる。勿論私も我が家もそうです。
でもやはり常日頃、それが必要だと思っています。
地震の揺れ自体に備えるのは勿論大切だけど、その後、火を出さない、食糧を確保しておく、避難経路を確認しておく…あぁ!最近怠っている!
何よりもせめてもの手だてで最近確立できたのは、子どもたちのこと。今春1号が2号保育園の隣にある小学校に通うというのは、私からすれば安心材料の一つです。親達が職場から帰ってこられなくても、なにはともあれ二人が同じところに避難するという点で。
そしてほんとはしておかなければならない事の一つに、職場から歩いて帰宅できるかどうか確認すること。
それは無理でも、車で道を確認することは、近いうちにやっておきたい。
あと職場に運動靴は置いておかなくては…
15年もたつと、喉元過ぎれば何とやら…で危機感が本当になくなるものです。ただ私の場合、被災経験を持つ者、その後何千人が亡くなっている町で暮らしてきた者として何かを伝え残しておく義務があると思います。
「生きる」と「死ぬ」って本当に背中合わせで、今生きていてもいつ死ぬかわからないと頭に置いていながらの15年でした。
震災の経験は、決して綺麗事だけではありません。
「生きる」ってことの裏には、人間のあさましい実情も隠されていて、震災後、あの町で信じられない事もあったし、当時の私は激怒して泣いた経験もあります。でも表に見られているように、人と人の関係も濃いものになったり。だから良くも悪くも「生きる」ということが凝縮されいてると思えたりします。
そんなことを感じながら、先ほど5時46分。
15回目の黙祷をしました。
黙祷は、生きている限り続けていくつもりです。
震災の経験を一気に書きました。
(一気に書き上げたので、誤字脱字、不適切な表現があったらすみません)
マイミクのみなさんの心の片隅に、そういう経験をした人もいるんだ、と今日一日残しておいていただければと思います。